無題

 

 

 

 

 

 

 

※途中から格好つけて、言葉で発して気持ちよさそうな味濃いめの文章になっています。完全に中学生並みの文章です。不快な文章で申し訳ない。正直俺が馬鹿にしてる人間がこんなん書いてたら笑ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

アニメを楽しめなくなったのはいつだっただろう。

オタク的カルチュアを楽しめなくなったのはいつだっただろう。

きらめく光のような夢が、淡い闇の中に光を失うようになったのはいつだっただろう。

俺は好きなものがいつから言えなくなったのだろう。

 

厭世の呪詛を口にしながら、それでいて周りの人間に劣等感を抱くのはなぜだろう。

芸術学部で音楽を学ぶ機会を得ていながら音楽から逃げ続けるのはなぜだろう。

生活を共にしているはずの大学の学科同期から発せられる言葉を、まっすぐ捉えようとできないのはなぜだろう。

自室を得ながらにしてその自由を謳歌することをしないのはなぜだろう。

 

大学に進学してから感じているもう三年にもなる空虚の正体を、

言葉にできず苦しんだそれを、

ただの日本文学史に関する講義で、その小説家の精神についてかみ砕いて生徒たちにわかりやすく教えようとした教員から発せられた言葉、本来衝撃でも何でもない言葉、ただの言葉

 

 

そんな言葉に俺はその空虚を見た。

 

 

文学的には実存の喪失というのが正しいらしい、俺は今その喪失に泣いている。

 

 

中上健次という小説家、日本文学史においては非常に大きい人物についての講義でのことだった。

彼は被差別部落の出身であり、とても複雑な人生を歩んでいる。そんな彼の小説には部落が登場する。部落差別自体は異常なこととしていま日本で認識されてはいるが、それでもやはりいまだに影を落とす問題だ。

 

して彼は小説家として何を書いたか。何が原動力だったか。専門家ではないし、それを語るほど勉強もしなかった私は講義の受け売りしかできることがない。馬鹿であるから。

 

かなり端折るが、「岬」「枯木灘」を執筆したころの彼についての説明で行われた「私に分裂をもたらした歴史との闘争」というのがわかりやすいと思った。

 

彼のキーワードは「路地」だ。故郷である部落の世界を路地としている。(らしい)

私と、私を包む家族、そしてそれを取り囲む部落、つまり路地だ。

その後彼は兄を残し母と二人で部落を出る。そのまま生活をするがその後兄は自殺した。

 

彼はここで分裂する。路地に取り残されみじめに死んだ兄と、路地を裏切った(つまるところ出た)母という存在。そのなかで居場所を持たぬ自分はなにか。分裂した自分を作った血縁への愛憎。濁った血縁の歴史への「闘争」。そこから彼の文学は生まれた。

 

らしい。

 

その後列島改造により部落も開発が進み、故郷である部落は失われてゆく。そして彼自身は近代化してゆくまわりの生活に身を置いている。近代化していく戦後の中で戦っていたはずの部落という血縁共同体をも破壊する近代の論理を見た。

 

らしい。

 

してその後彼は戦っていた相手である「葛藤」を失った。その影響は大きく中上健次は文量が増えたくせにスカスカの小説を書いたらしい。「地の果て、至上の時」という小説だ。

 

らしい。

 

このまとめとして教員は「中心(近代)/周縁(路地)の二項対立を失って露呈する『起源なき現在』の生成」と説明してくれた。教員がこれをかみ砕いた結果、俺はその日布団で泣かねばならなくなった。

 

教員はこういってくれた。

 

「例えばだ。模試や試験、受験などといった、そういったいやなことから逃げようとして意味もなくゲームしたり漫画を読んだり映画を見たりするね。必死にそれに打ち込んだりもするね。しかしそこには葛藤がある。なぜか?そこに外的な物差、外的な私である外的自己と、やりたいことをやる内的自己の二項対立が存在しているからだ。じゃあ外的自己の物差を外されたらどうなるだろう。逃げていたそれを、やりたいことをむしろやれと言われた瞬間にその必死さを失い、腑抜けるってのがこれにあたるね。つまりは五月病みたいなもんだ。」

 

なんとわかりやすくも教えてくれたものだ。俺の三年は一瞬にして解決され、これから紡がれる(なんて表現が使えるうちはまだ頭が幸せなのだろうか・・・)自分の未来をはっきりと認識するなんていう副産物を生むほどに。

 

見えたのはやりたいことなんてない、しがない底辺労働者の老いた自分だった。

芸術学部に身を置いて芸術の勉強をしたいなんて言っていた姿はどこへ行った。クソのごとき落伍者じゃないか。

 

実をいうとショックだったのはこれじゃない。

空虚にたどり着いたのだ、教員の言葉をかみ砕きながら。

 

俺の原動力を見つけてしまったのだ。認識したことで将来を見失ったのだ。

 

今何を頑張って打ち込もうとも、最終的にすべてどんな結末を迎えるのかがわかってしまった。達観イキりキッズのような発言で申し訳ないが、今はそう感じている。

 

20年と少し、いろいろあった。

 

何故音楽に打ち込んだか。

何故高校でオタクと化したか。

何故音楽で大学に行こうとしたのか。

何故大学に来て、池沼行動(案外昔からしていたらしいが)が好きになったのか。

何故音楽に不真面目だったのか。

何故体調を崩し実家に戻って健康に暮らしていたのにまた東京に出たがったのか。

何故音楽をせず芸術科目に打ち込んでいたのか。

何故復帰できたにもかかわらずやはりだめなのか。

 

 

それがすべて、逃避だったからだ。

俺の原動力は逃避に由来していたからだ。

 

音楽に抱いた感動。アニメを見てオタクと遊んだりすることへの充足感。応援団長として野球部とぶつかり、しかし最後に野球部がぜひ応援に来てくれと言ってくれた時のあたたかさ。大学に受かった時のあのえも言われぬ高揚!

自分を解放し東京の夜に咆哮する快楽。実習をブッパし悲しみながらもどこかで笑っている謎の感覚。路上で倒れるほど衰弱したくせに、健康の安息すら捨て自由を得ようと必死に親と協議した夜。

西洋美術史や芸術思想のなんと面白いことか。劇団で脚本と舞台設計を話し合うことのなんと満ち足りたことか。大学の本番を降り、強化練習を休み父と行ったクリムト展のなんと美しいことか!

自らすべきことを蔑ろにして、周りに煙たがられながらもやはり自らの勉強をつづけたときのよくわからない安心感。ゾンビのようにひたすら大学で練習をしている学科の人間をあざ笑える余裕。

 

そのすべての感情の起伏が、そのすべてが、すべてが!

 

 

所詮逃避による産物でしかない!俺はいつも必死になれない!成せない!

 

 

 

 

俺は多分、自分から進んで、感動できたことがない。

そしていまからも、感動することができない。

 

 

 

 

勉強から逃避した。内申が低く、憧れていた男子校に入れなかった。一丁前に悔しがったくせに高校に入ってひと月まじめにやって飽き、結局F欄に内部進学しかできなかった。F欄だF欄だと必死に大学を罵ったが、何よりもF欄だったのは俺だった。

人間関係から逃避した。いまだに小中学校の頃を思い出して呪詛を吐く。確かに俺の学年の質はよくなかったが、何より俺にも問題があった。俺は違うのだとどこかで嘲り、これを書いてもまだ嘲っている。

音楽から逃避した。お前の好きなドラムはどうした。音楽はどうした。周りの人間の阿呆さを笑いながらお前は一番大学で下手くそだ。所詮滝のように曲を浴びて育っただけだ。お前は感性とノリだけで音楽を乗り切ってきた。お前は音楽に向いていない。

オタクになったのも一種逃避だった。Twitterを始めてからが一番ひどかった。共通の話題を持つ人間がいることがうれしくて必死にオタクという自分を肯定していたのだと思う。確かに作品は面白いものもあった。ただそれはもしかしたら面白いと思えていないのかもしれない。オタクとして俺は人生で一番大きい肯定感を得た。しかし何が文化だ。コミケを見ろ。あれが文化の最先端だというならそんな文化滅びてしまえ。

劇団してるってことがいま一番打ち込めている実感がある。しかし多分その実感も泡として消える。いまの進捗を見ればわかる。公演まで時間がないというのに追い詰められている実感がないと作ろうとしないのは、それはやりたいことと言えないからなんじゃないか。きっと公演後、終わった満足感で惰眠をむさぼるのだろう。

 

これが俺が三年間悩んでいた、空虚の正体だった。気づけていながらにして言語化できなかったわだかまりの正体はこれだった。

 

芸術家にありがちなやつなのだろうか。成功後の自殺者が多いのはそこからきているのかもしれない。

 

講義を聞きながら俺は青ざめていた。ショックだったのだ、

その後景色のいい自殺スポットをさがしたがよさそうなものは無く、いずれそれすら飽きて探すのをやめた。

 

その後教員にこのことを話した。教員はこういってくれた。

「その葛藤が無くとも、何かを続けて生み出してしまえる奴が、芸術家としての才能を持った奴なんだろうよ。」「しかし、いまこの時点で喪うことができてよかったかもしれないぞ。実存を喪失したなら、次は君は何を見つけられるかな。そうすればまた、新しく何か見えるぞ。探してみなさい。」

 

少し救われたが、所詮新しいスタートラインが引かれるだけだ。自分で引かねばならないピストルの引き金を誰かに引いてもらえるのを待っているだけの俺が、白線前で構えているだけだ。

 

中途半端な俺はこれからどうすればよいのだろうか。芸術家として生活してみたいと思わないわけではないが、その力を生むにはきっと逃避が要る。つまり家として俺は大成できる人間ではないということだ。現実の生活がある人間にこれは向いていない。次はきっと芸術そのものに文句を言うことになるだろう。

 

社会に出る日も近い俺は、どんな顔して社会に出るのだろうか。生きていけるだろうか。所詮学歴のない人間が今の暮らしを維持できるわけもない。

 

そしてこれを書いているいまでさえ、締切なぞとうに過ぎているであろう映像を作らず逃避している最中だ。まったく逃げてばかりだ。

 

文にして思うが、やはり俺は書くのが下手だ。えらそうに書いてみてこの文章だし、それは周りも笑いたくもなるだろう。

 

やっと文字にできたが、この空虚だけはどうしようもない。まだ逃げているのだ。

空も明るくなってきた。またも健康でいることから俺は逃げ出している。

 

そして書くことにも逃避して、ここに文章を締めたいと思う。

 

結局俺が悪いのだ。